7年ぶりに見性院殿法要
5月13日(日)さいたま市緑区の清泰寺(天台宗)で見性院殿の法要が会津会主催で執り行われました。 本堂の立替えのため7年間法要が休止していましたが、今年は没後396年目(397回忌)の法要でした。
見性院は武田信玄の息女で、嫁いだ夫亡き後、徳川家康に養われていましたが、二代将軍秀忠に庶子幸松が誕生後、頼まれて7歳まで立派に養育しました。
その後幸松は、高遠藩に養子に迎えられて保科正之となり、領内の民の暮らしを見聞し領民に慕われ、のち最上(山形)を経て若松城主(会津松平家祖)となりました。
藩祖保科正之公はそれ以前の蒲生氏郷公とともに、後世の会津に多大が影響を与えた名君と
あがめられており、「家訓15カ条」の主な部分は今も郷土教育に生かされています。
見性院は元和8年(1622年)に亡くなった後、正之公が恩に報いるため清泰寺に霊廟を、
そして現在の見性院の墓石は(1858年,安政5年)会津藩により建立されたものです。
昔から参加している人の話では、以前は本堂の脇に竹林が広がり、春先の法要では筍がふるまわれたとか。 現在は樹木の一部を残して墓地や駐車場に整備され、立派な本堂を構える都会型の寺院になりました。
新築された本堂での法要のあと、見性院殿之墓への参拝、そして直会(なおらい)へと続きました。
今年度の法要参列者は、会津松平家14代当主松平保久(もりひさ)様、 会津会柳澤秀夫会長、及び北村邦雄幹事長はじめ26名でした。
直会では、柳澤会長よりスピーチがありました。
「先祖は会津藩士で斗南藩から戻って会津で暮らしましたが、それ以前は高遠より保科正之公に従って会津まで移ったことまでは分かっています。それより遡れば武田系の武士の流れであることが推察され、武田一族との因縁を感じます。」
また松平保久様からは
「これまで長きにわたり見性院殿之墓を守ってこられた清泰寺様には感謝申しあげたい。
会津人は先人への崇敬の念が大変強く、各地での法要を続けている原動力になっており、
今年は戊辰150年、3~4年後にはここでの法要も400年の節目となります。
今後とも先人への感謝の気持ちをもち法要を続けていきたい」と話されました。
献杯のご発声は松平保久様によって会津で慣例となった日本酒で行われ、その後歓談のひと時となりました。