見性院殿398回忌法要(令和元年)

 5月12日(日)に、さいたま市緑区東浦和の清泰寺にて「見性院殿法要」が会津会主催により行われました。昨年は本堂の立替えのため7年振りの法要でしたが、今年は昨年に引き続き397年目(398回忌)の法要を迎えました。
 改めて見性院殿についてご紹介します。見性院は武田信玄の息女で、武将穴山梅雪の妻となり、 夫・梅雪の死後は徳川家康の庇護を受けました。慶長16年(1611)に二代将軍徳川秀忠の子・幸松丸(後の保科正之)が誕生すると、見性院が幸松丸の養育を任されました。幸松丸は7歳の時に高遠藩主保科正光の養子となり、後に保科肥後守正之と称しました。見性院は幸松丸を7歳まで養育しましたが保科正光の養子となった4年後の元和8年(1622)に亡くなりました。采地であった大牧村清泰寺に葬られ、保科正之公により清泰寺境内に霊廟(れいびょう)がつくられましたが、現在の墓石は1858年(安政5年)会津藩により建てられたものです。
 なお、保科正之公は兄家光の時代に山形から会津の藩主となり、兄の三代将軍家光や四代将軍家綱を補佐して幕政に参画しています。元禄期になり、保科正容のとき「松平」の姓と三ツ葉葵の紋が許されました。(写真:見性院の墓より抜粋)

見性院の墓説明

 今回の法要参列者は会津会の柳澤秀夫会長、町野英明副会長をはじめ、新会員および地元有志の方々を含めて20名参加されています。本堂にて法要を行い、その後に見性院の墓へ参拝、そして直会の流れとなりました。
 法要が始まる前にご住職から次のようなご法話をいただきました。今回の見性院殿法要が398回忌を迎えること、また清泰寺も平安時代初期に開山されてから1150年以上となり、2年後に見性院法要が400回忌の節目を迎えられる喜びを話しされていました。
 法要が終わり参拝となりましたが、現在のお墓(霊廟)は一般墓地の奥にあります。そのため本堂からも「見性院の墓」への道順が分かりやすく「方向札」が立てられ、迷わずに行くことができます。また 昨年は霊廟周辺に樹木が立ち並んでおり霊廟が樹木に隠れるような状態でしたが、現在は霊廟周辺の樹木が取り除かれ、見通しの良い状態になっています。
そのような中で参列者の皆さんが霊廟前に集まり参拝されました。

見性院殿の墓(石標)
法要参列者の集合写真

 その後直会が行われ、最初に会津会の柳澤秀夫会長の挨拶がありました。挨拶では、見性院殿法要400回忌を迎えるに当たり、会津会においても感謝の気持ちで法要をしていきたいと話されました。続いて町野英明副会長の献杯により直会が進められ、参列者の歓談となりました。
 いつも法要に参加されている地元有志の方々から見性院と清泰寺の関係などお話を伺うことができました。また清泰寺ご住職からも改めてお話しがありました。法要の法話でも述べられましたが、昨年本堂が新築されたこと、清泰寺開山から1150年以上となり見性院殿法要も400回忌を迎えることから現在境内の霊廟周辺を整備されているとのお話しでした。なお、後でお聞きしたことですが、清泰寺は高僧・慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられ、円仁が没した864年から清泰寺の開山も1150年程前と考えられているそうです。また直会では今年新規入会された会員との話も尽きず、終始和やかな雰囲気でした。
 最後に山内裕正幹事長が会の締めを述べられ、法要が無事終了となりました。

昨年の見性院殿のお墓(霊廟)前、周囲に樹木が植えられています。 門扉には松平家「三ツ葉葵」の御門が付けられています。